2014年5月18日日曜日

野のなななのか



前作の「この空の花 長岡花火」があまりに素晴らしかったので、
公開初日の舞台挨拶付きで見てきました。
前作との姉妹作品という位置付けらしく、
映画文法的には同じような作りでした。
圧倒的な情報量にひれ伏し、
映画という濁流の中に身を浸すような感覚。
話の語り口としては決して上手いとは言えないけれど、
この感覚を味わうだけでも是非映画館で見て欲しいと思います。

舞台は北海道の芦別で1人の元町医者であるおじいさんが
亡くなったことにより、葬式、通夜、
初七日、なななのか(四十九日)を行うという話。
それに加えて、おじいさんの過去を通じた、
北海道における第二次大戦の話が加わっている形。
文字にしちゃうと簡単な話なんだけど、
そこは大林メソッドでとんでもない形で表現されてる。
冒頭、おじいさんが亡くなるところから始まるんだけど、
病院のシーンで登場人物が概ね紹介されるシーンの
詰め込み具合から「うわぁー!」ってなるw
カット割りもそうだし、音と画が合ってないというか
微妙なズレがあって、頭がクラクラする。
そっから現在と過去をクロスオーバーしまくり、
誰が生きてるのか、死んでるのかも曖昧な世界。
前作も同様に戦争を題材としてるものの、
本作はジトーっとした
wetな世界観なのが対照的だなーと思いました。
「生」「死」という概念について、
しこたま突き詰めてくるし、
カタルシスが用意されてる訳じゃないから、
色々と考えさせられるような作り。
ひ孫のかさねという女の子が芦別の街を回るところでは、
芦別という街の紹介になりつつ、生の伊吹を感じさせてくれる。
一方のおじいさんの樺太での出来事のシークエンスでは
濃厚すぎる死の臭いをトリッピーな映像で
延々と見せつけられます。
輪廻転生にまつわることであって、
僕自身は懐疑的なんだけど、
圧倒的な映像でそれを見せつけられると
ぐうの音も出ませんでした…
最近読んだ白石一文の「この世の全部を敵に回して」
の論考とも共通点あったので、興味深かったです。
パスカルズの使い方もおもしろくて、
「セデックバレ」の天国シーンを想起。
優しい音楽を奏でてるんだけど、静かな狂気を感じましたw
あとは中原中也の詩も象徴的に使われています。
彼に託される反戦の意図っていう話が
舞台挨拶で監督が言っていて、それもなるほどな〜と。
あとは3.11および原発に関する言及もあります。
おじいさんが亡くなった時間が
3月11日の2時46分っていうところから
劇中にでてくる時計が示す時間はすべて2時46分となっている。
あのときに止まってしまった何か。
それは何だろうと見ながらずっと考えてました。
(孫の1人が原発で働いているというくだりはいらなかったかも)
戦争を実際に体験した世代がどんどん亡くなっていく中で、
こういったアートな形で、戦争の爪痕を残していく意味を考えると
1人1人が考えて生きていかなきゃなーと思いました。
意味を考えつつ、圧倒的な映像を体験すべし!

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